第142回、その3

短編小説第142回、第三回目、最終回です。

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 透子(とうこ)は、自分自身の言葉が信じられなかった。
 うちの子にならない――? そう言うつもりだった。本心がこもっていたが、それでも冗談に持ち込める範囲。軽く切り出すつもりでいた。
 産んであげられなくて、ごめんね――。
 確かに、自分の口でそう言っていた。何の関係もない、この男の子に対し。
 流した子供のことは、少なくとも独りになってからは、考えたことがなかった。……考えようとしなったことだった。
 呆然から我に戻ると、男の子が姿を消していた。
 突拍子もない言にびっくりして、逃げてしまったのだろうか。
 透子は部屋を渡った。やはり子供の好奇心からか、男の子は時折ものめずらしそうに物入れを眺め、ふとんの隙間でかくれんぼをすることがあった。
 どの部屋にも、男の子はいなかった。
 食卓のテーブルには、食べかけの料理と小さな水筒だけが残っていた。
 透子は水筒の中を覗き込んだ。家の先に水筒だけがあった時から、久しぶりに中を見た。
 水筒には、容量めいっぱいに水があった。前に見たときは、半分にも充たない水量のはずだった。
 水は、かすかな声をこだまさせていた。
「産んで上げられなくて、ごめんね」
 透子の言葉だった。
 声はうすく色のついた水を跳ね返り、浮かび上がって、透子に帰ってきた。
 子供を流してしまった当時は、泣くこともしなかった。
 自分が傷ついたことよりも、誰かが悲しむことを避けた。誰かから、傷つけられないよう、心の蓋をきつく閉めた。
 透子は水筒をまた覗き込んだ。
 水のかさが、また増えたような気がした。

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短編小説第142回、テーマ「水筒」でした。
さすがに短編小説も3回連続ものとなると、いつもよりも深くプロットを考えるのですが、おかげか、自分としては気に入った物語になりました。
暗〜い小説ですが、水筒の中をのぞき込んだ時に顔にかかる温かさや臭み、そして思い出を醸し出せていればいいな、と思います。


Photo by (c)Tomo.Yun (http://www.yunphoto.net)