第54回

短編小説、ようやく第54回です。

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 周りの騒がしさに反して、遥はとても静かな気持ちでいた。母の手に自分の手を置くと、子守歌すら聞こえてくるような気がする。歌っているのは、まだ若い母。聞いている自分は、とても小さい。まだ子供――。あの頃、この固い手の主は、どんなおもちゃよりも魅力的な楽器だった。ねんねん、ころりよ……。
 遥は目を閉じる。子守歌を思い出す。なかなか眠らない子供に対して、母はいつも辛抱強かった。
 とんとんとん……。そうしてないと自分が眠ってしまいそうだったのだろう。母は歌のゆっくりとしたペースに合わせて、手を添えてくる。ねんねん、ころりよ……。そして歌い終わる頃にキスをしてくれるのだ。とんとんとん……、ちゅっ。
 遥はその流れが面白くて何度も子守歌をせがんだ。とんとんとん……、ちゅっ。とんとんとん……、ちゅっ。何度も何度も繰り返していると、母はさすがに根を上げる。
「ねえ遥、お母さんもう疲れちゃったから」
「だめー。もう一回歌ってー」
「だって、遥ちっとも寝ないじゃない」
「あと一回歌で、ちゃんとねるからー」
 だけど、根負けして再び歌い出すのだ。いつも。最後に必ずキスを添えて。子守歌はいつも本来の役目と逆の効果をもたらしていたが、小さな遥にとっては、生きている中でもっとも意味のある時間だった。とんとんとん……、ちゅっ。とんとんとん……、ちゅっ。
 ずっと続いてほしい。終わらないでほしい。甘くて、とても大切な音楽――。とんとんとん……、ちゅっ。とんとんとん……、ちゅっ。
「お母さんの鼓動、もう聞こえないだろう?」
 いつの間にか父が横に立っていた。悲しむ娘の手を母のそれから離し、包み込む。出棺の時間を、もう大分過ぎていた。
「ううん」遥は首を振る。「聞こえるよ、お母さんのリズム。私の中に、伝わっているよ」
 遥の目から、ようやく涙がこぼれた。

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短編小説第54回、テーマ「リズム」でした。