第53回

「いいかげんにして!」鮎美は立ち止まった。駅からの帰り道、混雑する商店街。しかし、鮎美は一人で歩いていた。ナンパなど、からんでくる人間はいない。おかしな人間と思われたのだろう。奇異な視線を送られ、鮎美の周りから人が遠のく。
「あ……すみません」頭を下げると、鮎美は足早にその場を離れた。顔が熱い。怒りも覚える。
数日前から声をかけられていた。誰から? これが分かるからこそ、いらいらする。そして迷う。声は後ろから話しかけてきて、自分以外の誰にも聞こえない。当たり前だ。声の主は――。
「ねえ、本当にいいの?」
「……」
「あなただって、本当は……」
「やめて!」
家に帰ると、鮎美はうなだれた。取り憑いたようにしつこいこの声が、一日の疲れを倍増させるのだ。パソコンを立ち上げて、ひさびさにメールチェックを行った。たくさんの広告メールの中に一通、懐かしい差出人が見える。
『ケータイの方、チェックしてもらえた? とにかく、会ってもう一度だけ話がしたい』
短い文章なのに、言いたい事が強く伝わってきた。声が強くなる。嬉しそうに。
「ねえ、無視しちゃダメだよ。もう一度やり直そうって言ってるんだよ」
「いいのよ、これで」
「早く返事をしなきゃ?」
鮎美は黙り込む。後ろに立っているのは、過去の自分。分かっている。振り向いたら、彼女に頷くだろう。反抗できない。今、自分は辛いのだ。振り返る方が楽だ。
でも――。鮎美は思う。きっと、また苦しくなる。それも理解している。……理解してきた。メールを削除する。
「その幸せは、もう終わった事なの」

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短編小説第53回、テーマ「後ろ」でした。
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