短編小説第35回、テーマ「櫛」となります。
髪の毛を梳かす方です。串焼きの方ではありません。
読みはくしです。
なぜ36回目にこのテーマを持ってこなかったんだ、シャレのわからん男だな。
なんて言わないように。

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「友くーん、今日も元気に皆と遊びましょうねー」
扉が開くと、やがて笑顔は自分に向けられた。そんな気がして目を逸らした。
「マユミせんせーっ!」息子は弾丸の勢いで彼女に抱きついていく。
(本当に好きなんだな……)磯村にとってその素直さは微笑ましいものであり、うらやましいものかも知れなかった。バスが見えなくなるのを待ってから、伽藍堂の我が家に帰る。妻に先立たれてから、もう三年が経とうとしていた。
 長い髪の生前。息子は記憶すらないだろうが、自分は一日すら忘れた事はない。
「なあに? そんなにじろじろ見ないでよ」
 鏡台に向かったままはにかむ様子を、横になって眺めているのが好きだった。寝室に入る。象徴は形見となって櫛に宿った。……昨日、音を立てて壊れた。
 もちろん自分が使うものではない。息子が遊ばないようには、気をつけて保管していた。
「思い出くらい、残していたっていいだろう……」妻が二度いなくなったような虚脱感は、考える事さえも億劫にさせる。
 月日は残酷でも過ぎていき、薄れていくものだってあるだろう。磯村はバラバラになった櫛から、歯を一本摘まむ。ずっと、認めたくはなかった――。鏡に亡霊は浮かばず、抜け殻が映る。
「こんなことじゃ、お前が浮かばれないって、本当は分かっているつもりなんだ」
 運命は、二人をずっと一緒の場所に差しておいてくれなかった。立ち上がり、壁のカレンダーに歯を突き刺す。日付は妻の誕生日。
「事実だけを留めるよ。僕らは別々に、そして流れは長く真っ直ぐに」
 窓を開ける。風の匂いが、なんだが妻の髪の香りに似ている。
「このこんがらがりを解いてくれる、かな?」
 マユミ先生に返事を伝えなければならない。