第154回 前編

短編小説第154回、今回は前編後編の二回ものになります。

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 男は深井戸に落ちていた。
 何度もはい出ようと試みたが、井戸は深く道具も無しに素人が上れるような高さではなかった。
 井戸の底は暗く、外の明かりが月のように浮かんで見えた。
 男が生きながらえているのは理由があった。
 つるべ落としに盆を入れて、誰かが食事と衛生用品を落としてくるからだった。
 食べ物か排泄行為。
 二つの盆にのった物資は、どちらかを選ぶとすぐに引き上げられ、両方を取得することはできなかった。
 もちろん男は、二つとも得ようと何度も試みた。しかしどれだけ素早く動いても、二つとも獲得することはできなかった。
 上の人間を怒らせると、食事も衛生用品も途中で引き上げられてしまう。あきらめた男は、確実に生きるために食事と衛生用品を一日交代で受け取った。
 気力もなくなってきていたというのが、本当の所だった。
 井戸の底の生活が何日も続いたある日、盆が三つに増えた。
 二つはいつもと同じ食事と衛生用品。もう一つの盆には、紙と鉛筆が載っていた。
 この二つに関しては、どちらかを選ぶのではない。セットのようだった。
 これを選ぶと、もちろん他の二つが引き上げられてしまうのだろう。
 男はその日食事を選んだ。翌日も、同じ組み合わせの三つの盆が降りてきた。
 二日に一回の食事と排泄行為は、ここで人間として暮らしていける最低限度の物資だ。
 紙と鉛筆を選べば、それらを使用するのが、さらに一日空いてしまう。
 しかし三つの盆が降りてくる日が幾日も届くと、男は結局紙と鉛筆に魅せられた。
 この紙と鉛筆には、好きなものを書いて良いのではないだろうか——。

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短編小説第154回、まずは前編でした。
後編に続きます。


ちなみに、結構前に書いているので、チリのあの事案とは、関係ありません。
(疑う人は、あんまりいないとは思いますが)