第113回

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 珍しい夜だった。研究室のメンバは、今日に限って全員が帰った。
 残ったのは、入江(いりえ)だけ。作業は徹夜になるほど押しつけられていたが、気分は悪くなかった。
 他人がいない分、音楽を堂々と流すことができるからだ。いつもはヘッドフォンで聴いているが、やはり空気を震わせた音の方が耳に心地いい。圧縮していないCDの原音。やわらかい雨の中に、短命でこの世を去った天才ヴァイオリニスト、サラの演奏が、やさしく響いた。
「おや、今日は君だけか」
 ふいに声をかけられて、飛び上がった。部屋の入り口に教授が立っていた。遺伝子工学の権威であり、入江にとっては親兄弟よりも尊敬する人物。あわててオーディオのボリュームを下げた。
「一人でやってても、つまらないんじゃないか」教授は部屋に入ってくる。固くなった入江にほほえみかけた。
「この方が部屋も広いし、贅沢です」
「贅沢?」
「機材の順番待ちをする必要もありませんし」
「ささいなことだな」教授は首を傾げてから、入江の顔を見据えた。「君にとっての贅沢は、そんなことか? 本当の贅沢とは何だ?」
「本当の贅沢?」
 入江は訊き返した。教授が何を訊いているのかわからない。しかし、言葉を補足する素振りも見られなかった。がっかりさせないように、頭をフル回転させる。結局、素直な意見を述べた。
「支配すること、だと思います。生物でも、空間でも自分のものにすることが、贅沢です」
「支配。なるほど」教授は入江の言葉を繰り返す。視線だけが鋭かった。入江は身がすくむ想いで、言葉の続きを待った。
「その答えは合格だ。案外、君と私は気が合うのかもしれないな」

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短編小説第113回、今回は前編後編の二回ものです。
前編となります。


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