第10回

短編小説、昔のものの移しです。

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「あ、イッテ……くっそー」
 妻が同窓会でいない夜。ヒロシは久しぶりに包丁を握った。まな板の上のネギに、赤い養分が染み込んでいく。
「ったく、飯くらい作ってけってんだよ」
 冷蔵庫にあるのは、ぽつんと残った納豆。こんなもので空腹を癒せるほど、貧乏をさせていないだろう――
 機嫌を損ねた指は、居間へと戻り、ゴルフ雑誌を掴んだ。畳に寝そべり数ページめくると、水着の女の子が不要なものを押し付けてくる。
 思えば数ヶ月ぶりの妻の不在。すがすがしいこの日を待っていたはずだ。
 なのに、頭の中はもやがかかったように、素直な気持ちを映し出してくれなかった。
「なんであんな女と結婚したんだったかなー」
 ぼやくと、タイミングよく“ぐう”と、腹も喚く。DVDを引っ張り出そうと考えた矢先、迷った。どちらの欲望を先に満たしたものか。
「量が少ないから、それだけの時間で済むもんなー」
 結局冷蔵庫の扉を開けた。「うん、賞味期限もまだまだ」
 箸をとると、運良くお中元の缶ビールも発見する。フタを開け、思う存分かき混ぜた。納豆はみるみるうちに新鮮な糸を吐いていく。
「あ、つ……」
 勢いをつけ過ぎたのだろうか。水で洗い流しただけの直線。にじみが、指紋の谷を再び縫い始めていく。
「ホント、あいつがいないと……」
 赤い流れは、ヒロシの手を伝い、箸を渡って、糸を染めた。
 手を下ろす。苦笑いをかみ殺す気にもなれなかった。
 用事が用事だけに、妻が腹を空かして帰ってくることはないだろう。せめて迎えに行ってやろう――ヒロシは上着をもう一枚重ねた。

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短編小説「糸」でした。