第9回

短編小説、昔のものの移しです。

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 命なんてものは軽く、死はとても重い――
 そう言っていたのは、眼下に深く沈む智だ。明美は、助手席で横顔を見つめていたことを思い出していた。なぜ自分はかすり傷で済んだのか―― 無情な事実を思えば、確かに死は重い。
「待ってて智。すぐそっちに行くから」
 大きく息を吸い込み、深く沈まんとする。しかし、どんなにもがいても、同じポイントで先に進むことができなくなってしまい、浮上してしまうのだ。
「どうして……!」
 明美は水面をたたいた。満足の行かない感触が帰ってくる。気軽に潜れる深さではないのか。何度挑戦しても、智へ手が届くまでには、到底残酷な程の距離があった。さらに、いつもよりも軽く感じる自分の体が、もどかしい。
「こうやって私は、あなたにも届かず、どこにもたどり着けないの?」
 明美は呟く。垂直だった体を平行にすれば、見渡すまでもなく、岸なんてものが存在しないことがわかった。あるのは、天空に正中するまぶし過ぎるほどの太陽。
「お前はまだ、ここではなく、あそこで飛ぶ軽さを持っているってことなんだろ?」
 突然、智の声が脳裏に響いた。えっ――驚く明美と同時に、太陽は光を強め、空間を支配していく。
「あ……」
 視界が完全に白くなったのは、窓から差し込む光のせいだったのかもしれない。
 母親、そして荘二の顔が目に入った。その腕には真新しい衣をまとった新しい命。
「難産だとは聞いていたけど……」
 安心する母親が崩れ落ちる。荘二は、胸一杯のほほ笑みを見せ、明美に赤ん坊を渡した。
「僕らの赤ちゃんだよ……」
 明美はうなずく。
「随分、軽いのね」

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短編小説第9回、テーマ「軽い」でした。