恩田的セカイ系決定版 恩田陸『球体の季節』

球形の季節 (新潮文庫)
恩田 陸
新潮社
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難解なのか、ぼかして書いているのか、それとも私の理解が単純にないのか、通しで二回読んでしまった。
とにかく、簡単な小説ではない。
そして二回続けて読むのが苦痛では全然なかったのだから、まったく面白くない小説でもない。
恩田陸という人間を形作ってきた世界観が一つに凝縮され、そして表現された物語ということで、読後に自分の胸にこの「球体の季節」という“セカイ”が広がった。


物語は、三人の高校生男女が主人公といて入れ替わり進められていく。
そして間あいだにさらに違う人間の視点が入ることによって、ものの感じ方や小さな単位での時間軸、立っている場面がこんがらがり、独特のわかりにくさを生み出している。


だが、これこそが狙いであり、登場人物が最後に言っている「跳ぶ」という感覚をコントラストとしてうまく表現している。
この跳ぶ、という感覚。
これがまた読者にはわからないものだろう。


私は
“タガが外れる”
“常識から外れる”
“想いを遂げる”
“頭の中にある何かを外に出す”
という感覚ではないか、ととらせてもらった。


そして、これらの言葉のおそらく中間地点にあり、そして、社会的な人間として生きていくにはかなり遠い場所にある感覚だろう。
おそらく、特に日本では。


人間として本来持っている感覚そのものを覆い隠しているのが、“今の普通”だから、それを取り払う、もしくはそこから“跳ぶ”ことを望む人間がいてもおかしくない。


つるんとした人間本来のニンゲン。
だが、それは殻をとりはなってしまうことも意味しており、世界に溶けこんで消えてしまうことも意味している。
(というより、普通の世界からは、消えたものとしては扱われる、という意味だろう)


気づいて、消えるのか。
それとも気づかないふりをして、生きるのか。


この問題にもっともぶち当たる高校生という年齢層を主人公にしているのも、ちょっとしたデザインだろう。


このセカイをわかりにくくもこれほどまでに事例的に表現できるのは、さすがに(私が勝手にそう決めつけている)技巧派の恩田陸といったところか。


★★★☆☆