140回

短編小説第140回になります。
4月までは、すごく寒かったのに、ゴールデンウィークに入ってからえらい暑くなってきたので、まあ、そんな感じのお話です。

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 蝉の声すら熱に溶けてしまいそうな夏のはじまりだった。
「くそったれ……死にやがれ」
 呪詛を吐き捨てる男がいた。恨み言だけが灼熱の空間に響いていた。
 男は何か、地面に向かってこすりつけていた。
 その作業が完遂されれば、男の恨みもきっと晴れるのだろう。誰もが、そう見るはずだ。
 しかしまわりには、誰もいなかった。汚れた地面だけが、ただ熱を持って広がっていた。
 男は地面にデッキブラシをこすりつけていた。一磨きする度に、男が呟く呪詛のような赤黒い液体がわき出た。
 不満だった。もっといい道具がほしかった。
 デッキブラシに呪いの言葉など、様にならない。これでは、『魔女の宅急便』だ。
 黒魔術の本は、図書館で読みあさった。失敗はしないはずなのに――!
「ちくしょう、ぶっ殺してやる……!」男はまたデッキに力を込めた。
「ノゾキ魔ー。ちゃんとやってるかー?」
「女子更衣室に侵入しちゃ、ダメだよー」
 遠くの空から、ヤジが飛んできた。
「くそが!」男はそれらの声を無視してデッキを擦った。
 ただっ広いプール掃除は、一人には時間のかかる作業だった。
 校舎の三階の窓ガラス。男のクラスからは、まだ容赦ないヤジが飛んでくる。
 並ぶ顔に、一人の女子を確認した。
 彼は、ますます地面に顔を向けた。
「……こっち見んなよ」
 他の連中にこの無様な姿を見られても、むかつくだけだ。でも、彼女だけには見られたくない。彼女に見られたら、恥ずかしくて、死んでしまいそうだ。
 いっそのこと、この泥水に溶けてしまいたい――。
 彼はまた、デッキブラシに力を込めた。

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短編小説第140回、テーマ「カラメル」でした。


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