第53回の3

短編小説、数合わせのため、53回を3回目です。

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 東京から三時間ほど車を飛ばした所に、たぬきの棲息地として知られるのどかな山里があった。島村はたぬきが人を化かすという伝承をテーマにしている民族学者だ。毎年この時期に、泊まりがけで調査にやって来る。
「先生は、何を仕掛けているんですかい?」 地元の案内役、次郎が訊ねた。
「ええ。これは匂いの元となる分泌物を測定するものなんですよ」
「匂い……ですか」
「はい。私は、たぬきが発するフェロモンが、人間に幻覚を見せると考えてるんです。ほら、嗅覚が記憶をつつくってことがあるでしょう?」島村は顔を上げて、得意気に話す。次郎は、に首を傾げた。六十をゆうに越えているからか、島村は出会ってからこの男が歳を取っているようには思えない。
「まあ、お手伝いはできんが、ゆっくりしていきなさい。いつ、来なすったんでしたっけ?」
「昨日です。あ、そうだ!」島村ははっとして立ち上がった。深々と頭を下げる。「昨晩はどうもごちそうになりました」
「ああ、お味はいかがだったかな?」
「ええ、すごく。あんなに旨い魚は食べた事がありませんよ。……あの、本当にお代はいいんでしょうか?」
 次郎は目を細めて何度も頷いた。「あー、気にせんでも。匂いだけだから」
「えっ?」島村は驚いて顔を上げる。「……そう言えば、次郎さんは昨日どこにいらしたんですか?」 
「最近、たぬきの里ということで、人の出入りが多くなってですの」次郎は質問に答えずに、その場に腰を下ろす。「わしらも大忙しなんだわ。一人何役も……ってやつでさ」
「……そんな事言って、大丈夫なんですか?」
島村は呆然とその背中を眺めて、そして肝を冷やす。見なかったことにすべきなのか――。
「なあに、匂わす程度ですよ」次郎の影に、ぴょっこっとした、しっぽが映っていた。

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短編小説第53回の3、「香り」でした。
つか、匂いだな、こりゃ。