できる、できない では、ない。

iPhoneを否定したがる人たちが、よく「それ、スマートフォンでもできるよ」とか「ケータイではできるのに、iPhoneではできないじゃん」とか言っているのを見て、辟易していたんだけど、弾さんがこんなエントリを出していた。


iPhoneがガラパゴスケータイより劣っていていい理由


「わかってねえなあ、キミタチ。iPhoneの本当の恐ろしさを。」とのことなので、ちょっと期待したのだけど、私が言ってほしいこととは、またちょっとずれていた。


みんなわかってて言っているものだと思っていたのだけど、誰も言わないからこうしてエントリしてみる。

できるか、できないかのレベルではなくて、こんなにも操作感のグレードが高い。
それがiPhoneでしょう。
そのためにも、ケータイとしてはかなり大きいディスプレイ。
そしてタッチパネルが搭載されているんじゃないだろうか?


一応日本以外のいくつかの国では、去年からあったものの、こと日本において生まれたばかりのiPhoneに、最初から100%の「多機能」を私は求めていなかった。
むしろ、アプリをインストールすることによって、こんなにも多機能になれることの方がびっくり。立ち上げとしては、多すぎるほどの機能をつけたり、外したりできるという意味で革新だっただろう。


たとえば、日本のガラパゴスケータイもWebページを見ることは当たり前にできる。
アプリを立ち上げて、見たい部分を拡大、縮小。リンククリックするにしても、ケータイでは、どんな操作をするだろう? それがどんな感情をくれるだろう?
十字キーもどきでカチ、ポチと目的のアイコンを選択、なーんか、がくがく、もっさりしながらようやく立ち上がったと思ったら、画面いっぱいにテキストと申し訳程度の画像、どういうセンスなんだか、テキストがちかちか光って、「ご注意」なんか言っちゃってる。
(これは、サイトが汚いこと。かつ、我々デザイン側の責任でもあるんだけど)
iPhoneは最初から、PC向けサイトを見るように、Safariを搭載。その操作も指で直感的にタッチだ。


たとえば、写真を観るなんてのも、日本のガラパゴスケータイはお手のものだ。
メニューを選び、壁紙に設定したりするのも、できるできないで言えば、iPhoneが優れているわけじゃない。
だけど、目的の写真を選ぶまでに、「さっさっさっと実物の写真を触ったかのような感覚による楽しさ」は、また、そうすることによって伴う、「自分の好きな画像を選んでいるワクワク感」は、アップルがもっともこだわって(いると、私は勝手に思っている)調整部分だ。


調整という言葉が、Windows Mobileや日本のケータイ、というか、WindowsMacのもっとも違う部分なのだ。
日本で発売されているWindows Mobileケータイのほとんどがタッチパネルだけど、iPhoneのように、指の動きと画面のスクロール速度といった、インタフェイスの調整がまったく留意されていない。
アイコンタッチでカクカクカクカク……と墓石のようなウィンドウが現れる。目に毒である。


そんなもの、お前らスイーツが気にするだけで、全然本質的な議論じゃねーよ! とお思いだろうか?
我々は、どんなにデザインを気にしなくても、一つの技術が生まれると、それ以降は、ずっとこういう「グレード」をあげようと努力してきた。
ほとんどの方が使ったことがあるであろうエレベータを考えてほしい。
古いビルに入って、すごくボロなエレベータを使ったりすると、かなり揺れながら、身の危険を感じつつ、上にのぼる。なんてことがないだろうか?


昔はこういうエレベータが珍しくなかったけど、だんだんグレードをあげてきたわけだ。できるできないの話で言えば、たいした進歩はしていない。
私が言っているのは、このエレベータが、「女性が一人で入っても安心で、まるで動いているのがわからないようにスムーズに昇降する」調整なのだ。


そう考えると、iPhoneMacで、アップルが目指している「おもてなし」の方向が、決して「できる、できない」でないことが分かるだろう。
操作することによって、どれだけリッチな感覚をわき起こらせてくれることなのだ。
少なくとも私が解釈しているレベルでは。


ところで子飼弾様。
iPhoneガラパゴスケータイより劣っていていい理由」の書き方では、「バグがあっても、修正してまたアップすればいいんだよ」って読めたので、びっくりしました。
基本バグがないのが、前提ですよ。
でも、ちゃんと、取り返しの機会があること。
これはどちらかというと今回の「App Store」のシステムのすごさですね。